LOGINなんでもない朝だった。
なにかがいつもと違うこともない、平凡でありきたりな、いつもと変わらない朝。だからなのか、寝起きのせいで頭が起きていないこともあって、僕は洗面所で顔を合わせるまで、昨日のことをすっかり忘れてしまっていた。
なんで白鷺有紗がうちに? と一瞬まじで思ってしまったのだから、心の中で土下座をしておく。
「お、おはよう、白鷺」
おかげで、一気に頭が仕事を始めた。
いつもは冷たい水で顔を洗うまでは半分寝たままなのに。僕は動揺を抑えつつ挨拶をした。
しゃこしゃこと歯磨きをしていた白鷺は、その手を止める。しかし、そのまま動くことなく、ゆっくりと首を傾げた。なんだ可愛いなおい。
どういう反応だそれ。なにが分からないんだ? 今はもうお昼なのか? おはようじゃないですよ、みたいな意味のリアクションか? 今から学校なんだからそれはない。三十秒くらいはあったと思う。
歯ブラシを加えたまま固まっている白鷺と見つめ合っていたけど、僕が何かを思い出すのを諦めたのか、歯ブラシを出して、口の中をゆすいだ。タオルで口元を吹いた彼女は、そのまま口元を隠しながら、もう一度こちらを見てくる。
そして。
「……有紗」
ぽそりとそう口にされ、僕はようやく言わんとしていることを理解した。
同時に真っ赤になってるんじゃないかと思うくらいに顔が熱くなる。なんだよこいつ可愛いかよ。氷姫だよね?
どこが氷姫なのか教えてくれ!「おはよう……あ、有紗」
女の子を名前、それも呼び捨てになんてしたことないのでもちろん緊張するし、照れもある。
そんな中、なんとか振り絞った声を聞いた白鷺……有紗は、ふにゃりとした笑顔を浮かべた。 「はい。おはようございます、郁人くん」機嫌を直した彼女は弾んだ声を漏らし、スキップでもするような軽やかな足取りで洗面所を出ていった。
「……僕の義妹がこんなに可愛いわけがない?」
* 今日は金曜日なので、この日さえ乗り越えれば楽しい楽しい週末が待っていると誰もがやる気を絞り出す日だ。別に週末に何か予定があるわけではないが、それでも楽しみであることは確かだ。授業のない、一日中好き放題できる日とか最高すぎる。
ところで僕は、学校での有紗との関わり方について、朝食のときからずっと悩んでいた。
そもそも、学校では氷姫として過ごすのかどうかっていうのも気になるところだしな。
「あ、郁人君」
「紗苗さん?」
リビングの方からぱたぱたとスリッパの足音を立てながら、紗苗さんが駆け寄ってきた。
「悪いんだけど、有紗と登校してあげてくれないかしら」
「え、と、僕はいいですけど」
登校とか一人でしたいタイプかもしれないし、学校で僕らの関係は伏せたほうがいいのかなとか、いろいろ考えてとりあえず一人で行こうと思っていたんだけど、そういうことならそうしようか。
なんで紗苗さんが?
という疑問が顔に出ていたのだろうか、紗苗さんは少しだけ表情を曇らせた。「……あのね、郁人君も知ってると思うけど、有紗はずっとお嬢様っていう感じの生活を送ってきたのよ」
「実際、お嬢様だったんですよね?」
僕の言葉に、紗苗さんはこくりと頷く。
「だから、もしかしたら郁人君が思っているよりずっと、世間知らずなの。もちろん、ここから学校への行き方さえ分からないと思うわ」
「……あぁー」
なるほど。
箱入り娘ってやつか。 僕も数回見たことはあるけど、確か有紗は黒色の高級車に乗って登校してたんだよな。歩いて学校に行くことなんて、なかったんだ。まして、この辺の土地勘だってないだろうし。
「分かりました。僕が責任を持って学校まで連れていきます」
「これから迷惑をかけることもあるかもしれないけど、あの子のこと、よろしくね」
「有紗はもう家族ですから。迷惑くらいいくらでもかけてもらって大丈夫ですよ」
紗苗さんと話をしていると、リビングの方から準備を済ませた有紗がやってきた。
「……あ、あの、その、一緒に……」
「まだこの辺詳しくないだろうし、一緒に行くか」
なんだか言いづらそうにしていたので、僕の方から提案すると、有紗は「……はい」と安堵したような声を漏らす。
その様子を見て、紗苗さんは微笑ましそうに笑っていた。そんな顔されるとなんかやりにくい。有紗の準備を待ち、一緒に家を出る。
うちから駅までは十分ほど歩く。複雑な道でもないので、一回二回歩けば覚えられるだろう。僕の数歩後ろを、たたたと早歩きで追いついてはゆっくりになって、開いた差を埋めるようにまた早歩きになりながらついてくる有紗。
そこで自分の歩くスピードが速いことに気づく。
女子と一緒に歩くことなんてこれまでほとんどなかったし、あったとしても気にならないくらいだったから、気にすることもなかった。これが女子と歩くということか。
それから、意識してスピードを遅くすると、有紗は僕のすぐ後ろをぴたっと張り付いて歩くようになった。
ちらと後ろを見る。
改めて見ても、現実離れした美しさだなと思わされる。 日本人には珍しい銀髪だけど、これは血筋なのかな。そういえば紗苗さんもそうだし。ハーフとかクォーターなのかもしれない。知らんけど。シャツの上から紺色のブレザーを羽織っており、チェックのスカートは膝上丈でひらひらと揺れている。
どこにでもある平凡な制服も、着る人によってはドレスにも匹敵する衣装に見えるから不思議だ。これまでずっと、鋭く冷たく見えた瞳は、今は鋭さも冷たさも感じない。くりんとしていて可愛らしく見える。
それはやはり、昨日で彼女に抱く印象が変わったことが大きいのだろう。何を話せばいいのか分からず、話題を探しているうちに最寄り駅に到着した。
僕はカバンからICカードを取り出し、改札を抜けた。「い、郁人くん! 進めませんっ!」
焦りを帯びた声で名前を呼ばれ振り返ると、改札ゲートに行く手を阻まれた有紗が、涙目で助けを求めていた。
……そりゃお嬢様は電車なんて乗らないよな。
*
ほとんどの人間は日常の中で、電車に乗るものだ。子供の頃に親と一緒に、通学の際に一人で、遊びに行くときに友達、機会は様々だけど大人になるにつれて当然のように利用してきた。
だから、電車の乗り方が分からない人がいるという発想がなかったけれど、彼女のこれまでの生き方を考えればむしろ当たり前で。
「い、郁人くん……」
白鷺有紗、改め橙原有紗は僕が思っているよりもずっと、筋金入りの箱入り娘のようだ。
「さっき紗苗さんにICカードもらっただろ?」
「あいしーかーど? こ、これですか?」
今日から電車で登校することを予想していた紗苗さんは、すでに準備を済ませていたようで今朝家を出る前に有紗に渡していた。
「そう。それをそこに当てるんだよ」
カバンから取り出した剥き出しのICカードを、難しい顔をしながらリーダーに当てる。
すると、ガシャンと音を立ててゲートが開いたので、さささと駆け足で通過した。
「電車に乗るときはそのICカードがいるから、失くさないようにね」
「は、はい」
エスカレーターに乗ってホームへと向かう。
この時点で僕の中には、視界に入れておかないと不安だという気持ちがすでに芽生えていた。
これは義妹を心配する気持ちではあるんだけど、もしかすると親が小さい子供を監視する考えに近いかもしれない。
なので有紗を先に乗せ、僕はそのあとにエスカレーターに乗り込む。これでさえ珍しいのか、感心したような声を漏らしながら辺りを見渡していた。
そういうところは、可愛くもある。
と、微笑ましい気持ちになった瞬間、僕の視界には全然微笑ましくない景色が入り込んできて、すぐに顔を逸らした。
有紗を先に乗せたことで、僕の視線の先にちょうど彼女の白くて綺麗な太ももがあったのだ。
これ、もうちょっと視線上げたらスカートの中も見えてしまうのではないだろうか。
そう考えると、非常に危険な乗り物である。
けどスカートの中見えそうだから気をつけなよ、とか言うのも気持ち悪いもんな。どうしたものか。
とりあえず、僕でガードはされてるから問題はない、のか?
「有紗は電車に乗ったことあるのか?」
「……ないです。いつも車で送迎してもらっていたので」
僕たちは駅のホームに到着する。
あまり大きな駅ではないので、電車を待っている人はちらほらといるくらい。
人のいないところに立って、まもなくやってくるであろう電車を待っていると、隣に立った有紗が珍しげに周囲を見渡していた。
「なにか気になる?」
「いえ、あまり人がいないようなので」
「この駅ではね。けど、だから電車が空いてるっていうことにはならないから覚悟しておいた方がいいよ」
ちょうどそのとき、ホームにアナウンスが響く。遠くから電車がこちらに向かってきているのを見て、有紗は「わぁ」と小さな声を漏らした。
プシューと音が鳴り、扉が開いたところで電車の中に入る。
だいたいいつもこの時間帯の電車に乗るけど、座席はすでに埋まっている。人の数はまばらで、まだ本格的な混雑は起こっていない。
いつも適当なところで立っているんだけど、今日は有紗がいるから、そうもいかない。
僕は開いた扉とは反対側の扉の方へ向かった。ここから当分は向こうの扉が開くので、四方八方を囲まれない分まだマシだろう。
「なんだか緊張します」
隣に立って、弾んだ声でそんなことを言う有紗。
僕らにとっては慣れ親しんだ景色でも、彼女にとっては未知なる空間なのだ。
二駅ほど進むと乗り換えのある大きな駅がある。本格的に混雑するのはこの駅なのだ。
少し人が出たあと、ぞろぞろと雪崩のように人が押し寄せてきて、車内は一気にすし詰め状態となる。
予想を超えた展開だったのか、有紗は「わわっ」と情けない声を漏らしながらうろたえていた。
僕は覆いかぶさるように扉に手をついて、混雑の衝撃から彼女を守る。
「……」
「……」
ぐいっと背中を押され、立てていた肘が曲がる。するとどうだろう、油断していた僕と有紗の顔は急接近してしまう。
互いの吐息を間近に感じる。
あともう数センチ近づいていれば、唇同士が触れ合っていた。そう思うと、激しく動く心臓の勢いが止まらない。
「ご、ごめん」
「いえ、その……ありがとうございます」
この混雑、お嬢様だった有紗にはさぞかしカオスな空間に思えただろう。これからこの電車を利用しないといけないと考えたら憂鬱になるかもしれない。
世間知らずの度合いを実際に目の当たりにしているから、どうしても心配になる。
「ふぐぐ」
「……」
紗苗さんの言っていた、よろしくという言葉は、本当に大変なことなのかもしれないな……。
*
いつもの倍は疲れた満員電車を乗り越え、ようやく電車を降りる。
駅から我らが通う大幕高校までは一本道でおよそ五分。途中、ゆるやかに上がっていく坂道があることだけが面倒だ。
「あの、郁人くん」
「ん?」
駅のホーム。
ここまで来ると大幕の生徒もそこそこいて、集団がホームから出ていったにも関わらず、立ち止まったままの有紗が僕を呼んだ。
「ここからは一人で行けます」
「え、いや別に」
「昨日、いろいろ考えたんです。学校でのこと。多分、私たちのことは大っぴらにしないほうがいいと思います」
白鷺有紗は氷姫。
それはクラスメイトはもちろん、同学年、いや校内でもそこそこ知れ渡った印象だ。
「僕は別に……」
そう思ったけど、彼女がもしかしたらそれを望んでいるのかもしれない。
だとしたら、これまで通りにただのクラスメイトでいた方がいい。
「有紗はそれでいいのか?」
「はい。家でも学校でも、郁人くんに頼りっきりにはなりたくないので」
日常生活と比べて、学校での生活はこれまでやってきているわけだし、校外に比べれば問題もないのだろう。
彼女なりに考えた結果だろうし、ここは尊重しよう。何でもかんでも世話を焼くのもよくないしな。
「分かった。けど、困ったことがあったらちゃんと言ってくれよ?」
「はい。ありがとうございます」
*
有紗には前を歩いてもらい、僕は少し距離を空けて彼女の登校を見届けることにした。
正直言って、僕らが義理の兄妹になったことについては明かすデメリットが特に思いつかない。逆に言えば明かすメリットもないわけだけど。
まあ、混乱は招くかもしれないか。
あの氷姫の仮面は、何かしらの事情があってつけたもの。だとして、その仮面はもう外せるのだろうか。
外せるのだとしたら、彼女は校内でどう振る舞うのだろうか。
そんなことが気になった。
心配は心配だけど、あんまり過保護になるのもよくない。そもそも何様だよって感じだし。
はじめてのおつかいを見ているような気分で有紗の登校を見届けた僕だったけど、無事教室にまでたどり着いた。
「……」
教室に足を踏み入れた有紗は悩むような素振りを一瞬見せたけど、すぐに顔を伏せて自分の席に行ってしまう。
これはまだまだ先が遠そうだな、などと思っていると背中をばしんと叩かれる。
「いッたい」
「おーっす、郁人。相変わらず冴えない顔してるな」
朝でも夜でももちろん昼でも、変わらず陽気で元気な声で挨拶をしてきたのは鳴門耕助だ。
ブラウンの髪をくしゃっとセットした猫目な男子。同じクラスになって、なぜか仲良くなった友達だ。
「あんま朝から女子のこと視姦しない方がいいぜ」
「してないっての」
僕はどちらかと言えば陰キャラだし、耕助はどちらかと言えば陽キャラだ。タイプの違う僕らがどうして仲良くなったのかというと、これが本当に些細なことでしかない。
「誰を見てたんだー? って、もしかして氷姫か?」
僕の視線履歴を追おうと教室の中を覗き込んだ耕助が、有紗を見つける。鋭い指摘に、一瞬だけ表情に出てしまうけど、多分馬鹿だから気づかれてない。
「そんなわけないだろ」
「お前、ああいう子が好みだっけ?」
「だから違うって」
「なんであんな冷たく当たるんだろうな。仲良くすればいいのに」
あまり深くは考えていないんだろうけど、それでも有紗を見ていればそう思うようだ。
「なんでだと思う?」
「ん?」
「いや、だからさ、あり……白鷺が周りに冷たく当たる理由だよ。なんでなのかなって」
「んなもんお前、コミュ力とかそういうんだろ。冷たく当たってるっつーか、そういうふうに思われる態度ってだけじゃねえかな」
「コミュ力、ねえ」
昨日と今朝と、有紗とのやり取りを振り返るけど、コミュ力がないって感じはしないんだよな。
たどたどしい感じはあったけど、あれはコミュ力っていうよりは距離感に悩んでるとか、気を遣ってるとか、そういう類のものだったと思う。
「それかやっぱあれだぜ、お嬢様だからさ、庶民が馴れ馴れしく話しかけるんじゃないわよ! みたいな?」
「……それは絶対ないな」
「なんでそう言い切れるんだよ?」
「何となく、そんな気がするだけ」
いつまでも教室のドアの近くで喋っていたら迷惑だ。僕は耕助との会話を適当に切って、自分の席へと向かった。
ちらと有紗を見ると、やはり孤立している。
そりゃこれまでずっとそうだったのだから当然なんだけど。
僕は劇的な一日を経由しているから見方が変わっているだけで、クラスメイトからすれば昨日と何も変わらない。
なんか、これまではあんまり気にならなかったけど、彼女の事情を知ると、不思議とその表情もさみしげに見えるな。
僕が話しかければ、もしかしたら周りの目も変わるかもしれない。
それはきっと最善ではないにしても、解決のための策であることは間違いないはず。
でも、多分有紗がそれを望んでいないんだ。ここはやっぱり、傍観する他ない。
そうは思っていても、一度気になるともう無視はできなくて、その一日、僕はずっとちらちらと有紗の様子を見てしまっていた。
「お前、まじでずっと氷姫のこと見てんじゃん。どうしたんだよ、恋にしては遅すぎるぞ?」
そんなことを続けていれば、周りが変に思うのも無理はなく、昼休みに入ったとき、耕助が呆れたような口調でそんなことを言ってきた。
さすがにここまで言われて、気のせいとあしらうのは不自然か。
「可愛い女の子は見たくなるもんだろ」
「んなの分かってるよ。なんで急に氷姫なのかを聞いてんだ」
「急に気づいたんだよ」
「恋心?」
「違うわ」
「隠すなって。よっし、ここはこの耕助様に任せておきなさい! 勇気の出ない奥手な郁人君の代わりに、俺がお昼誘ってきてやるよ」
にしし、と白い歯を見せながら自信満々に言った耕助は、僕が制止するよりも早くズンズンと有紗のもとへと行ってしまった。
あいつのああいう物怖じとかしないところは本当に凄いと思う。それに、今回に至ってはそれが進展の糸口になる可能性すらある。
これは僕、無干渉みたいなもんだし。
耕助の独断と言って差し支えない。
有紗のところへ行き、話しかける耕助。
耕助が陽気に誘っている様子だったけど、会話が弾むことはなく、がくりとうなだれた耕助が戻ってきた。
「どうだった?」
結果は分かりきっているけど、一応訊いておく。
「ダメだった」
「ちなみになんでダメだったんだ?」
「知らねえよ。一緒に飯食おーぜーって誘ったら、無言でこっち睨んできたんだ」
「パンツ見せてとか言ってないだろうな?」
「お前馬鹿にすんなよ。さすがの俺だって時と場合は考えるわ」
「時と場合考えれば言っていいセリフでもないけどな」
しかし。
これはもしかして、コミュ力の問題もあるのか?
帰ったら、ちょっと話してみようかな。
*
ヴヴヴとスマホが震えたのは、ちょうど耕助から放課後の寄り道を誘われていたときだった。
「今日は部活もないんだよ。なんか食って帰ろーぜ」
「ああ、いい――」
返事をしようとして、僕はスマホを確認することにした。
自分で言うのもなんだけど、僕のスマホがメッセージを受信することはほとんどない。
つまりこうして震えているということは、何かしら大事なメッセージの可能性があるわけだ。
スマホを取り出し、内容を見てみれば案の定スルーできない内容だった。
『一緒に帰れますか?』
有紗からのメッセージだった。
まさか女の子からこんなに可愛らしいメッセージを受信する日が来ようとは。
義妹ではあるけれど、義妹と割り切るにはあまりにも日が浅すぎる。つまり、まだまだ全然ひゃっほーと喜べるわけであります。
「悪い、耕助。今日の寄り道は遠慮させてもらうよ」
「え、なんだよ。タピオカ飲んでる女子をナンパする作戦はどうすんだよ?」
「それはまた後日にしよう。今日の占いでバッドアイテムがタピオカだったんだ」
「聞いたことねえぞ!? じゃあクレープでもいいけど」
「悪くないけど、後日にしよう。今日の占いでラッキーアクションが直帰だったんだ」
「お前どんだけ占い見てんだよ!」
ツッコむのはそっちじゃないだろ、というツッコミは飲み込んでおこう。
ここまで言えば諦めてくれるのが耕助だ。仕方ねえなあーと言いながら他のクラスメイトに絡みに行った。
耕助は友達多いからな。主に男子の。
上手くやれば女子からも好かれそうなものだけど、どうにもそういうところは不器用だ。
耕助に断りを入れたところで、僕は有紗に返信する。
『大丈夫だけど、今どこにいる?』
教室にはいなかった。
そもそも、僕とは極力関わらないでおこうという考えだろうから、校内で待ち合わせるって感じじゃないか。
などと考えていると、すぐに既読がついて返事も送られてきた。
『駅で待ってます』
とのこと。
どうやら耕助と話をしているうちに先に教室を出てしまったらしい。
これまでずっと送迎のあった有紗だけど、そんな彼女が駅までの道を歩いているところを見て、違和感を覚える人はいたのだろうか。
それとも、今はもうそれほどの注目は集めていないのだろうか。だとすれば、それが吉と出るか凶と出るかって感じだけど。
昇降口で靴を履き替え、学校を出たところでまたスマホが震えた。
恐らく有紗だろうと思いつつ、スマホをポケットから取り出して確認すると、やはり彼女だった。
『できました!』
改札の内側からの写真とともに、そんなメッセージが送られてきていた。朝の失敗に対するリベンジってところなんだろうけど、それをわざわざ報告してくるところは愉快である。
僕は『すごい!』と言っているペンギンのスタンプを送って、小走りで駅まで向かった。
下校路にはちらほらと大幕の生徒がいるけど、見たところ見知った顔はない。うちのクラスは部活動に勤しむ奴が多いからかな。
マリオカートだったらさぞかし爽快だろうなという感じで生徒を追い抜いていき、駅に到着する。
改札を抜けてホームにやってきた僕は、辺りを見渡して有紗の姿を探す。
彼女は生徒のいない隅っこにいた。
目立たない場所を選んだのは、有紗なりの考えだろうか。
見られたくないならもう少し学校を離れてから合流でも良かったけど、やっぱり一人で電車に乗るのはまだ不安かな。
僕だって小学生の頃、一人で電車に乗ったときは心臓がずっとバクバクしたままだった。
家に帰って母さんの顔を見たときには心底安堵したものだ。
子供にとっては電車って大冒険みたいなものなんだよな。これまでの行動範囲から一気に外れる感じで。
だから不安だし、だから楽しかった。
きっと有紗も今、あのときのような気持ちを抱いているはず。
「お待たせ」
見つけた彼女に駆け寄りながら声をかけると、有紗はこちらを向く。
一瞬見えた不安げな表情が綻び、口元には小さな笑みが浮かべられた。
「郁人くん。あの、ごめんなさい。わがままを言ってしまって」
学校では一人で頑張りたいと言ったのに、こうして一緒に帰ろうと誘ったことを謝っているんだと思う。
「いいよ、ここは校内じゃないし。それに、困ったことがあったら言ってくれって言ったのは僕だしね」
我慢して抱え込まれた方が何かと怖い。
電車には種類があるとか、乗り換えが必要とか、そういうのはまだまだ知らないだろうから、もう少し付き添いはするべきっぽいしな。
「ありがとうございます。けど、今回は一人で改札通れたんですよ?」
「それは、すごいね。同じ失敗をしないなんて、さすがだよ」
「ふふ」
よっぽど嬉しかったのか、有紗は嬉しそうに笑った。普通に可愛いんだよなあ。
その笑顔を教室でも出せばいいのに、という言葉はギリギリのところで飲み込む。
少し待っていると電車が来たので乗り込む。この時間のこの電車の利用者は、ほとんどが大幕の生徒だ。
僕らの乗った車両には三組だけ。それも学年が違うのか、見ない顔の生徒だ。つまり、僕と有紗の関係が露呈する心配もなさそう。
有紗は背すじをぴんと伸ばして、綺麗な姿勢で座っている。猫背とは正反対と言っていいその振る舞いに、お嬢様の一面が垣間見える。
「なあ、有紗」
「はい?」
どう言おうか悩んだけど、気の利いた言葉が出てこなくて諦めた僕は、腹を括って質問する。
「学校では、まだ、その、氷姫ってやつを続けるのか?」
――これは一人の少年と、一人の少女の物語だ。「おはようございます、郁人くん!」「……おはよう」 ゴールデンウィークが明け、今日からまた学校に行く日々が始まる。 ゆさゆさと体を揺すられ、うっすらと目を開けると、すでに制服に着替えている有紗が視界の中に現れた。 夢かな、と思った。 どうしてあの氷姫が僕を起こすんだ、みたいな。 けど、次の瞬間には脳が仕事を始めて目が覚めていく。すぐに彼女が、僕の義理の妹であることを思い出す。「もう朝ですよ」「……七時だけどね」 時計を見やれば、七時を回った頃。 朝は紗苗さんがご飯を作ってくれるので、僕は少々ゆっくりするというのが最近の流れなんだけど。 それを有紗が知らないということもないだろうに。「まだ起きるには早くない?」「そうですかね。せっかくですし起きましょう。そして、一緒にご飯を食べましょう」「……まあ、いいけど」 ここまで会話すれば二度寝する気にもならない。 僕はぐしぐしと目をこすってベッドから立ち上がる。「着替えるから先に行ってて」「わかりました」 ててて、と部屋を出ていく有紗の後ろ姿をぼけーっと見届けつつ、制服に着替えていく。 有紗がこの家に来たのは、春休みのすこし前だったか。ということは、あれからもう三ヶ月が
『あなたの幸せは、あなたが決めるの』 お母さんは私にそう言った。 だからこそ、自分の気持ちに正直になって私は白鷺家を出た。 あそこで自分が幸せになる未来が見えなかったから。 そうして、橙原家に来た私は……うん、幸せだ。 大好きなお母さんがいて。 優しい雅人さんがいて。 学校でお友達はできていないけれど。 涼花さんというお友達はできた。 そして、郁人くんが隣にいてくれる。 これを幸せと言わずして、ならばなにが幸せだと言うのだろう。「……はぁ」 ゴールデンウィーク最終日。 私はリビングでだらしなく寝転がっていた。することがないのだから仕方がない。 朝のうちにお風呂掃除も、お部屋の掃除も、できることはやった。けどお昼を過ぎた頃にはもう全部終わってしまった。 郁人くんのお部屋で漫画を読んでも、なかなかずっとは続かない。 お母さんと雅人さんはお仕事。 郁人くんはアルバイト。 郁人くんのバイト先に突然現れて驚かせちゃおうか、なんて考えは最初からなかった。 なんというか、今は彼の顔を直視できない。 嫌いということはもちろんない。 むしろ……。 だからこそ、みたいな。 先日、郁人くんとお出掛けをしたときに九山さんという方と遭遇した。 私が白鷺家を出る理由とも大
「……」 すごく悲しい夢を見たような気がする。 ふと目が覚めた私は、時計で時刻を確認した。まだ全然夜中で、もう一度寝ることができるんだけど、どうにもその気になれなかった。 体を起こして、カーテンの隙間から外の景色へと視線を向ける。空は暗くて、点々と星がまたたいていた。 新学期に入って、しんどい思いが続いたこともあって、もしかすると疲れていたのかもしれない。 だから、あんな夢を見たのかな。「……お水、飲んでこようかな」 少し落ち着けば、また眠れると思う。 私はベッドから出て、キッチンへと向かうことにした。 夜の家の中は暗くて静かだ。 子供の頃はこの雰囲気がどうにも怖くて、トイレに行くのにもお母さんを起こしていたんだっけ。 何時に起こしても、お母さんは嫌な顔一つせずについてきてくれた。 眠れない日には、ホットミルクを入れてくれたこともあった。 そういう、ささやかだけど大切な思い出があったから、私はそれからも頑張れたんだ。 そして、今はそういう日常が続いている。 私自身もそうなんだけど、雅人さんと一緒にいるお母さんが本当に幸せそうで。 橙原家に救われたんだというのがひしひしと伝わってきて。見ているだけで、心がぽかぽかする。 お母さんはきっと、雅人さんに救われた。 私は多分、郁人くんに……。「あれ、有紗?」 リビングに行くと、どうい
ゴールデンウィーク。 バイトの予定もなく、父さんや紗苗さんも仕事に出た日は、朝にすることもないのでせっかくなので昼まで寝るということは以前までもあった。「……」 スマホで時間を確認すれば、時刻は現在午前十一時半。それはもうしっかり惰眠を貪っての起床だった。 こんな日はアラームなんてもちろんかけていない。 十二分に寝たので自然に目が覚めたというのもあるけど、物音がしたというか、気配を感じたというか、そんな感覚に襲われて目を覚ましたというのが、今の僕的には最も近い感覚なんだけど。「あ、郁人くん。おはようございます」 なぜか、僕の部屋に有紗がいる。「……おはよう。何してるの」 まだ寝ぼけている頭で必死に状況理解に務めるが、全然なにも分からない。 僕が寝るベッドに背中を預けるようにしていた有紗が、手に持っていた漫画を見せてくる。「漫画を読んでいます」「……はぁ、そう」 まあ、ゴールデンウィークだしな。 残念なことに友達がおらず、アルバイトだなんだといった予定のない有紗は、この休みをこの上なく持て余している。 それはこの数日でひしひしと感じていた。 有紗は寂しがりやなのか、あまり自分の部屋にこもることをしない。リビングにいるか、両親が家を出ているときに僕が部屋に戻るとついてくることもあるくらいだ。 そして昨日、リビングに寝転がって天井をぼーっと見つめていた彼女になにをしているのか訊ねてみたところ、『天井を見つめてるんです』と一瞬理解が追いつかない答えが返ってきた
白鷺家において、父親は絶対的な存在だった。 だから私も、もちろんお母さんもお父様には逆らえなかった。 厳しい教育が続いても、私は隣にお母さんがいてくれたから、毎日頑張ることができたんだ。 中学三年生のとき。 親友ができた。私にとって、彼女は特別な存在だった。 けれど、それもお父様にバレてしまい、不要とされて関係を絶たれた。 お母さんが白鷺家を追い出されたのは、そのあとのこと。 実のところ、私はその理由に心当たりがあった。『一つだけ、意見させてもらってもいいでしょうか』 自分の部屋に戻ろうと、廊下を歩いていた私は、お父様の部屋の中から聞こえたお母さんの声に、足を止めた。『なんだ』『有紗と、有紗のお友達のことを許してあげてはくれませんか。あの子、友達の話をするとき、本当に楽しそうで……きっと、有紗にとってすごく大切な人なんです』 それは私の親友とのことを話しているのだと、すぐに分かった。 けれど、ここで私が入ったところで何がどうなるわけでもないということは分かっていて、だから、その場を動けないでいた。『……言いたいことはそれだけか?』 冷たいお父様の声がした。 表情を見ていなくても、どんな顔をしているのかは想像がつく。それくらい、私は何度もその声も顔も見てきた。&
私が新しいクラスの教室に到着したとき、中には誰もいなかった。 無理もありません。随分と早い時間に到着したのだから。 張り出されていた座席表を確認して、自分の席に腰を下ろす。 静かな教室の中、遠くの方からわいわいとはしゃぐ男の子の声が聞こえた。 クラス発表を見て、友達と盛り上がっているのかもしれない。 私は教室前方の入口を見た。 その扉を開く人はまだ現れない。 どうしようかな。 第一印象が大事だって言うし、とりあえず入ってきた人に挨拶をしようか。挨拶をされて嫌な人は、いないよね……? けど、もしも私のことを知っている人だったら。 謝って、友達になってほしいと素直に言えば、受け入れてくれるのかな。 そんなことを考えていると、ガラガラと教室のドアが開かれた。私はすぐにそちらに目を向ける。「……ぁ」 目が合ったけど、声が出なかった。 そこにいたのは女の子で。 私と目が合った次の瞬間には、不機嫌そうな顔になって顔を背けられてしまう。 朝だから、かな。 それとも……。 私は、きゅっと唇を噛んで立ち上がる。 黒板に張り出されている座席表を見ていた彼女が、自分の席へ行こうと改めてこちらを振り返ったタイミングで、私は「あの!」と勇気を振り絞った。 郁人くんに、良い報告がしたい。 彼は優しいから、きっと私のことを心配してくれているから、安心してもらいたい。「お、おは